実録!竹下流九星気学鑑定士 井田千春の自叙伝

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九星気学鑑定士 井田千春

初めまして、竹下流九星気学鑑定士の井田千春と申します。

私が竹下流気学と出逢い、10年が過ぎ、どん底だった人生から少しずつ少しずつ這い上がって参りました。自分の人生が大きく好転した経験から、一人でも多くの方に竹下流を知ってほしい!弟子として入門、厳しい研修をクリアして、鑑定士になってからは間も無く4年目に入ります。

私は、竹下流でいう、守備型家庭人(女性的な性格で適性は専業主婦)というタイプで、比較的安定して、人生に波が少ないタイプのはずなのですが、人1倍、いえ5倍以上(しなくても良い)経験をたくさんしてきました。

なぜなのでしょうか・・・?
今回は、そんな私のめちゃくちゃ波瀾万丈の人生をお伝えさせていただこうと思います。
最後までお読みいただけると嬉しいです。

目次

私の生い立ちと幼少期
0歳から小学校入学まで

1981年3月 私は東京都の板橋区に生まれ。
お彼岸の中日に生まれたので、誕生日には必ず牡丹餅があり、子供心に嫌だった記憶があります。
家族構成は、22歳の両親と1つ年上の姉、そして母方の祖父母、そして母の妹である叔母、賑やかな環境で育ちました。

私の幼少期は、まさに「不思議ちゃん」。母から「メルヘンから出てきた子」と言われていたほど、変わっていたようです。よく人には見えないお友達が遊びに来ていたり、小学校に上がるくらいまで、自分は「男の子」だと本気で信じていたほど。

というのも、私の適性は今でこそ「守備型家庭人」ですが、子供の頃は「攻撃型で不思議ちゃん」(男性的な性格で宇宙人)という真逆の性格をしていて、とにかく扱いずらい子だったようです。
※私のように子供の頃の性格と大人になってからの性格が変わるタイプを「仮性変態」と言います。

私の男性に対する価値観が大きく狂った一番の原因は
幼少期時代の環境「強烈な祖父母」「父と母の離婚」でした

父は母と20歳で結婚して婿養子に入り、祖父母と同居していました。私が6歳になる少し前、父が「出張に行ってくる」と言ったまま、そのまま帰って来ない、つまり離婚したのです。

大人になってから知ったのですが、離婚の原因は「父のギャンブルによる借金」。
その理由は今ならわかります。父がギャンブルにはまったのは祖父母によるいじめが原因です。

ご近所にも聞こえるくらいすぐに怒鳴り散らす祖父、言葉がとてもキツい祖母、両親にも孫の私たちにもとても厳しかったです。そのトラウマから、男性が大声で怒鳴るのは本当に苦手でした。

祖父は戦争も経験しているし、若い頃は自衛隊にいたこともあり、だからとても厳しいのかと思っていたのですが、、、実はそうでもなかったことが判明。

気学で見てみると、祖父母とも、適性は「経営者」独立開業が向いているタイプ。特に祖母は内職やパートくらいで、ほぼ専業主婦しかしたことがありませんでした。それはそれはパワーを持て余していたようです。その余ったパワーをぶつけられていたのです。

特に、姉と比べて「不思議ちゃんで扱いづらかったであろう」私の方が当たりが強かったこと、子供ながらにショックを受けていました。

しかも、母も祖父母に怯えていたので、私がどんなに怒鳴られていても、母が庇ってくれず、ただ見ているだけだったのもよく覚えています。

「おじいちゃん・おばあちゃんは怖い人達」小さい頃から植え付けられた記憶です。
よくあるニコニコ笑っているイラスト、田舎に行くとお小遣いをくれる優しい人、それって誰のことですか???絵本の世界だけじゃないんですか?おじいちゃん、おばあちゃんに会えるのが楽しみ!って言っている、すごく友達が羨ましかったのを覚えています。

小学校入学から高校まで、楽しかった学生時代。
高校卒業後の進路を決める頃、私の不幸ループが始まります。

6歳 小学校入学時には、母子家庭にはなりましたが、 仲良しのクラスメイト、学級委員、生徒会、スポーツに勉強に習い事、友達と遊んだり、楽しい小・中学校時代を過ごしてました。成績も内申も良かったので、エリアでは有数の進学校に合格。

でも、16歳の高校入学の時に、不幸の足音が聞こえて来るようになりました。
母が当時付き合っていた彼氏と一緒に住むことになり、私たちは歩いて15分くらいのところにマンションを借りました。全てはこの引越しから始まります。

・母は適職だった営業職でバリバリ稼いでいたにも関わらず、引越し後、突然職場でいじめに遭い、仕事を辞める
・私立の女子校に通っていた姉がコギャル真っ盛り、遊び歩いて家にあまり帰らなくなる
・私も母の彼氏と折り合いが悪く、3ヶ月後には祖父母の家に戻ることに。でも母の彼氏の機嫌を損ねることを心配した祖父に激怒され、私は居場所を無くしました。

たった一回の引越しでこんなに不幸になるとは・・・全く予想もしていなかったのですが。
気学でみてみると、引越した方位は、最悪の大凶方位。マンションの家相は超最悪、問答無用でアウトとされる、西日がガンガン入る、国道254沿い、しかもすぐ目の前には、悪い方で有名な終末期医療専門の病院がありました。

もうこれだけでも十分なのに、ここからさらに追い討ちをかけます。
誰も予想もしていなかった、私の妊娠です。

17歳。1度目の結婚の失敗。
高校在学中に妊娠・出産・結婚。19歳で離婚し、養育費も一切なしのシングルマザーに。「裏切られた・・・」母との関係は最悪な事態に陥りました。

バスケ部の練習中、なんか具合悪いんだよね、なんて話してたら
「あんた妊娠してんじゃない?」バスケ部の部長に言われた言葉で、ハッとしました。
薬局に妊娠検査薬を買いに行って、学校のトイレで試してみると見事、陽性反応。

マジか、どうしよう。
とりあえず病院に行こう。

友達についてきてもらって、数日後に産婦人科を受診
「妊娠してますね」
余談ですが、この時おめでとうって言われなかったのは、未成年だったからなのでしょうか。

仲良しの友達も「あんたどうするの?」ってみんな心配してくれましたが
付き合っていた彼氏から言われた言葉は
「大学卒業してちゃんと就職してからの方が幸せにできると思う」
確かに正論なのですが、でも当時の私には「堕ろす」という選択肢は全くなかったのです。

母親だけの時を狙って、打ち明けました。その時は冷静だったのですが、その後が大変でした。「裏切られた。富士の樹海に行く。」と言って大発狂していたそう。
母は、私の進学に相談に乗るとか、成績にも全く興味はなかったのですが、地域で有数の進学校に行っていた私は母の自慢だったのです。結局、私の心配をしていた訳ではなかった・・・

ここで力になってくれたのは、母の妹である叔母でした。
「せっかくできた命だから産みなさい。育てられなかったらうちで引き取るから」と祖母を説得し、相変わらず発狂していた母から私を引き離し、自分の家に住まわせてくれたのです。

出産は超難産で、出血多量でこのまま死ぬかもしれないと言う思いをしました。
産後は3週間入院。初めての出産で17歳で死にかけて、これ以上ないくらいの体験ですが、まだまだ私の波瀾万丈な人生はこれからです。

出産後は、生まれた息子に対して、大発狂していた母も、祖父母も、姉も、みんな溺愛。一気にみんなが協力してくれ、今までがなんだったのか、と言うくらいわだかまりがなくなりました。

義両親が突然「入籍しろ」「使ってないアパートがあるからそこに住め」と言われて、高校卒業後、3人での生活をスタートしました。

元夫は、仕事を始めましたが、当時の収入は月13万円。
しかも喧嘩をすると、パチンコでお金を全て使ってしまうのです。そのうちに、暴れるようにもなり、襖やドアも貫通していました。

翌月には、義母が家賃専用の通帳を持ってきて、もう払えないから、と言われ、逃げるように、祖父母の家に引越し。さらに喧嘩はひどくなり、ついには元夫は家から出ていきました。

両家で話し合いの場も持たれましたが、解決には至らず。すぐに離婚届を送り、養育費の調停を起こしましたが欠席され、それから23年間 一切連絡も取っていません。

1度目の短い結婚生活が終了しました。

20歳の春 初めての就職 アメリカ製サプリメントの通販会社に入社。
実家を出て子供と二人での暮らしをスタートさせました。

学歴がなくても、子供が小さくても、ヤンママでも正社員で雇って貰えたのです。仕事はやりがいもあって楽しかったのですが、小学校1年生に上がるタイミングで会社の移転が決定。お迎えが間に合わなくなると言うことで、迷った挙句に退社。

せっかく辞めるなら、今しかない。夢だった留学を子供と一緒に行こう、とハワイ行きを決意。
そう、このおかげで人生が最底辺まで落ちていくのですが、この時はまだ知る由もありませんでした。

26歳 ハワイ親子留学。
人生最大の不幸が待ち受けているとは知らずに、豪遊しまくり。友達もたくさんできてすごく楽しかった・・・でもその後の転落っぷりはもはや武勇伝。2度目の結婚の失敗、死産、詐欺、借金、元夫の失踪などなど

このハワイへの転居が人生最悪の大凶方位・・・とにかく帰国後は大荒れしていました。

まず帰ってきてから、5年同棲していた彼氏と突然の別れ。
勤めたサロンではパワハラに遭う。毎晩ママ友と飲み歩き、週末は六本木へ行く生活。
息子と同じクラスの12歳年上のパパ友と付き合い始め、流されるように電撃婚。

新居は、古いボロボロの一軒家。実家の持ちもので、家賃がタダだからと言う理由でしたが、そこからが本当に最悪の最悪の始まりでした。真横には大きな墓地、日当たりは最悪、昼間も真っ暗な家。

この頃から、よく物を落としたり、無くしたりするようになりました。
鞄を病院のトイレに忘れて現金を抜かれたり、電車の中でお財布を盗まれ、
飼っていた犬が、玄関から飛び出してしまい、家の目の前で車に轢かれて亡くなりました。
運転には自信があった元夫は車で人を轢いてしまったり、幸い大事には至らなかったのですが。

さらに追い討ちをかけます。
私が人生で一番辛かったこと、妊娠9ヶ月を直前に、死産を経験しました。
そういえば、最近お腹の中で赤ちゃんが動かないな、と思っていたら、お腹の中で赤ちゃんの心臓が止まってしまったのです。

「残念ですが・・・、このままだと母体が危険なので、このまま入院してください。」
お腹の中で子供が亡くなった場合、帝王切開ではなく、普通に分娩することになります。
陣痛を起こす処置をしていくのですが、本当に不思議なことに、自然と陣痛が起こったのです。

数時間後には分娩台に上がりました。
赤ちゃんが小さくても痛みは全く同じです。

亡くなっている赤ちゃんを産むなんて、怖くて怖くて、泣きながら出産したことを覚えています。
産まれた時には、もちろん産声を上げることもないので、本当に静かなお産でした。

子宮内胎児死亡。
解剖をしていないので、原因は不明のままです。

「まさか、こんなことが起きるなんて・・・」
「なんで私なの?」「何が悪かったの?」
ずっと自分を責めるようなことしか浮かんできませんでした。

立ち直るにはしばらく時間がかかりましたが、まだまだ悪いことは続きます。

27歳 ボロボロの一軒家からの引越しは、もちろんお決まりの大凶方位。家相もめちゃくちゃ最悪。引越して数日後には、家中にダニが発生して大騒ぎ。元夫は借金を繰り返し、ほとんど家に帰らなくなりました。

せっかく引っ越したのに、また引越し。元夫はかろうじて連絡は取れましたが、どこにいるのかもわからない状態。またもや大金を借りに行くと話していたので、もう無理・・・ということで離婚することになりました。

2回目の結婚生活がここで終了。

ちょうど、飲食店の会社を作るから手伝ってくれないか、という声がかかり、
私はそこでも働きながら、マンションの1室でエステサロンをはじめたのです。思いの他、サロンがうまく行ったので、さらに都心部へ移転させました。スタッフも雇い始めます。

そんな矢先に、祖父のガンが発覚。
治療のため入院するから、家に帰ってきて欲しいと言われ、実家に戻ることになりました。

当然、大凶方位でした。
戻った直後、突然の呼吸困難、40度の発熱、慢性的な蕁麻疹が出て、大学病院を受診。
あちこちの科に回されましたが、これといった原因は見つからず、最後の循環器で、喘息が発症してますね。しばらく通院してください。それだけでした。

さらに銀座にもサロンを出店していましたが、クレーマーが相次ぎ、警察沙汰になったこともあります。前から決まっていたサロン買収の話し。表参道にあるマツエクサロンを買ったのですが、いざ始まってみたら、聞いていた話しと全然違う。チンピラまがいの人が家まで来たりして、警察を呼びもう最悪でした。弁護士と相談して身を守りましたが、被害額は1000万円ほどにもなりました。

「なんでこんなに悪いことばっかり続くのか」精神的にももう限界で、朝起きるのが本当に苦痛でした。高額な自己啓発スクールにも通いましたが、全然変わることはできませんでした。

流石に、これはおかしい、目に見えない力が働いているのではないか、と思い始めたのです。
ネットで検索してみたら、「方位」という言葉が見つかり、「横浜で2番目に当たる竹下宏の九星気学」のホームページに辿り着いたのです。すぐに鑑定の予約をしました。

30歳 竹下流気学にたどり着いた私。
自分の不幸の理由が初めて解明されました。今でも忘れない、初めての鑑定で言われた衝撃の言葉。

「最悪の方位で引越してる、特にハワイがやばい。死んでてもおかしくない。」
「あとね仕事が合ってないから、今すぐ辞めた方がいいよ」
方位のこと聞きにきたのに仕事のことや家族のことまで言われてびっくりしたのを覚えています。

「とにかく旅行行ってきて」
言われた通りに、毎月方位取り(※生年月日から割り出した良い方角へ旅行に行って良い気を吸収させる気学の開運法)に出かけました。鑑定も3ヶ月に1回、受けるようになりました。

シンガポールにもサロンを出し、月1で出張に行っていたのですが、やはりほどんどが大凶方位でした。
「この月だけはやめられない?」と言われた最悪の月、すでに展示会に申し込んでいたため
「お金も払ったし、顧客との商談もあるし、無理です」と強行突破しました。

この頃の私は、めちゃくちゃ尖っていて、キツイ性格をしてました。お恥ずかしながら、素直にアドバイスを受け入れることはできなかったのです。

「まぁ大した話にはならないと思うよ」と竹下に言われていたのですが、まさにそれ以上でした。
現地でビジネスパートナーと決別、決まっていた商談もほとんどがダメになってしまい、さらに飛行機に乗り遅れるという失態・・・竹下が言ったことは本当だったんです。

そこからは、方位を信じて、方位を守るようになりました。
一人でフィジーへ方位取り旅行にも行きましたし、大凶方位への旅行は全てやめました。

しばらくして、新しく海外事業を一緒にやらないかと誘われて、会社を設立しました。
ビジネスパートナーとは相性がめちゃくちゃ良い、やってみたら?と竹下にも言われてスタートさせました。数ヶ月後、知人に「ある人を紹介したい、海外事業に力になってくれるよ!」と言われて、早速会ってみたら、元ロッテリア・バーガーキングの社長でした。3週間後には8千万円を投資してくれたのです。そのおかげで新しい海外貿易の事業が軌道に乗り始め、同時に、エステ事業を縮小させることになったのです。

運気が上がってきた?と思った矢先、さらに追い討ちをかける出来事があります。

息子がオーストラリアへ留学に行ってすぐのことでした。
3番目の元夫となる人と再会したのです。

33歳 3回目の結婚の失敗。
まさかここまでとは?!身も心もボロボロになり、DV警察沙汰になって初めて、目が覚めました。結婚してはいけない相性は、お互いを分かり合えないどころか、能力を削り合う、恐ろしい相性でした。

元夫は小学校からの幼馴染で元カレだったのですが、この相手とはどんなに努力しても回避できない、最悪の相性、決定打が出ていました。

当然、竹下には「付き合うのは良いけど、結婚する相手ではない」と言われていました。それからもずるずると付き合っていき、「絶対結婚はやめた方がいいという」という竹下の反対を押し切って結婚してしまいました。

「いや、でも、彼には私しかいないんです」私があまりにもいうことを聞かないので
最後は竹下も「まーやってみても良いんじゃない。身をもって知るのも」と言われたことを覚えています。決定打、というものを理解していなかったのです。

私はコーチングの勉強もしたし、コミュニケーション能力も高い。私が我慢すれば、大丈夫だろう、一生とは言わないけれど10年くらい持てばいいかな。なんて、思っていた私が甘かったのです。
とにかく、言いたいことが伝わらない。元夫はキレる、大声で怒鳴る、罵る、物にも当たるようになってきました。

娘が生まれて少しした頃、いつものようにキレた元夫が、「殺してやる」つかみかかってきたのです。蹴られ、殴られ、首を締められ、私が家から追い出されました。夜11時過ぎ、しかも娘を置いたまま。仕方がないので、隣の家にピンポンして、携帯を借りて110番しました。

渋谷警察署から、パトカー3台、明らかに「刑事」っぽい人2人とお巡りさんがゾロゾロやってきました。元夫を説得?し、家から出して連行されて行きました。私も聴取を取るため、別で渋谷警察署に向かいました。警察署では、「もう近づかない」という誓約書を書かされました。全て終わったのは深夜3時すぎになっていました。

翌日、竹下に報告したところ「そうか、まぁ仕方ないな。もう修復はできないだろう。」

そこから別居して、1年後に離婚。3回目の結婚も、わずか2年(そのうち1年は別居)という短さで終了しました。

喧嘩をする度、私は胃痙攣を起こしていました。後にも先にも、胃痙攣が起きたのはこの時だけでしたが、相当なストレスだったのだと思います。「わかりたくても分かり合えない」決定打の怖さを身に染みて体感しました。

いがみ合う両親の姿をみて育つ子供はやばい。誰が見てもそう思います。記憶がないとはいえ子供を傷つけてしまったことには変わりません。

選んだのは私ですが、竹下の言うことを聞かなかった私は、今でも後悔をしています。

36歳 人生最大のリベンジ その1
「固く生きなさい」師匠の竹下の勧めもあり、適性に合った会社勤めを開始。学歴コンプレックスの私が、大手の企業に入社し人事部に配属されました。

実は、ここでも一度ゴネています。
「師匠、ちょっと私には無理です」
高学歴の中で仕事をする自信がなかったのです。
「いいからいきなさい」さすがにもう二つ返事「はい」しかありません。

初めはニコニコしてコピーだけしてればいいや、と思っていたのですが、上司や同僚に恵まれ、日に日に、任される仕事も増えていき、仕事の成果も出るようになりました。部署やグループ会社も越えて、人間関係も最高でした。やりがいもあって、毎日が楽しい!朝が来るのが楽しみで仕方がない!
適性ってこういうことなのか、と初めて知ったのです。

自分自身が変わっていくのを感じましたし、周囲からも雰囲気が変わった!と言われていました。
今となっては、もっと若いうちにやっておきたかった・・・と思います。

入社して3年が経った頃、大きな転機が起きようとしていました。
竹下「そういや、ハワイ行ってこいよ」の言葉でした。

40歳 人生最大のリベンジ その2
大凶方位転居のリカバリ!子供を連れてハワイへ転居を決意

大凶方位の影響は、旅行はファンデーション、転居は刺青と言われている通り、一生消すことはできません。運気を上げてきたとはいえ、私の前科、ハワイの行き帰りの大凶方位転居は、とてつもなく大きなダメージとして、残っていました。

やはり、最後の最後でうまくいかない、何かの時に、スパーンっと進まないこともしばしば。そんな私を見ていた竹下からの助言でした。「どこまで大凶方位の影響を緩和できるかわからないけど、やってみる価値はあるぞ。」ちょうど、ハワイに行きも帰りも大吉で帰ってこられる時がやって来たのです。

「あー、はい、そうですよね。行ってきます。」
会社は辞めることになりますが、幸いオンラインで仕事はできるので生活は大丈夫そう・・・
そこからいろいろ調べて、ビザの手配に走ります。

40歳シングルマザーがハワイに住むには、実はものすごくハードルが高いのですが、竹下の力も借りてビザは何とかなりそう!
そんな時に、竹下の口利きで、竹下が顧問をしているお客様から、現地で力になってくださるというありがたいお申し出をいただいたのです。その方がいなければ、「私のハワイ行きは実現しなかった」のは間違いありません。子供を連れての海外生活は不安もありましたが、住む場所に困ることもなく、住所も、子供の学校の手配も、何も困ることがなかったのは、本当にその方達のおかげです。全てにおいて感謝でしかありません。本当にありがとうございました。

現地では、危険な目に遭うこともなく、流行病にかかっても、毎日食料を届けてくれたり、娘の送り迎えをしてくれたり、家族のような友達もたくさんできて、恵まれた生活を送れていました。
大凶方位、と大吉方位での差はこんなにもあるんだ、と身をもって体感しています。

そんなこんなで、あっという間に、1年半が経ちまして12月末に大吉方位で帰国し、現在に至ります。私も娘もだいぶ日本の生活にも慣れてきたところです。

帰国後は、オンラインに加えて、新宿で対面鑑定も始めました。
今までオンラインでしかお会いできていなかった方と実際に会いにきてくださることが本当に嬉しく思います。おかげさまで、仕事も右肩上がりでとても順調です。
今までのはなんだったのか?と思えるくらい人間関係も恵まれており、たくさんのご縁、ご紹介をいただいています。
SNSでもバズっています(笑)
今が人生最大に幸せです、と胸を張って言えます。

これも全てハワイ効果であり、運気が回復してきたからこそ、だと思います。

そして、どん底だった私が、ここまでこれたのも、どんなに言うことを聞かなくても見捨てずに、最後まで背中を押してくれる師匠の竹下、そしていつも優しく励ましてくれる姉弟子・弟子仲間のおかげです。あのまま一人だったら、まちがいなく脱落していました。今の私はありません。
改めて、この場を借りてお礼を言わせてください。いつも本当にありがとうございます。

私は竹下の言うことを聞かず、それも一度ではなく二度、三度と、その度にひどい目に遭ってきました。自分がどんなに「私だけは違う」と思っても、結局は竹下から言われた通りに、転落していったのです。流石に、二度三度と続いたら、もう疑う余地もありません(笑)

当時は、どんなに「方位取りをしても効果ないじゃん!」と思っていたのですが、それはただ自分が言うことを聞いていないだけでした。

「えーでも」「無理です」と言い訳して、自分の都合の良いところだけ聞いて、都合の悪いところは全て無視していたのです。

竹下を信じていなかった、というよりも、私が素直にアドバイスを受け入れることができなかったのは、・否定されたくない、怒られたくない ・そして、自分が間違っていることを認めるのが怖い、というプライドからだったのだと思います。

それだけ運気が下がっていた、のもありますが、自分を変える勇気がなかった・・・
以上が、私の敗因の理由でした。

でも、一度勇気を出して、自分の非を受け入れて、竹下のいうことを聞こう!と決めたら
「人生が楽になり、一気に好転を始めたのです」。

竹下が常日頃言っていることですが
「気学や方位が全てではない。それだけでは本当の意味では開運しない。
今、自分がうまくいっていないなら、うまくいっている人のアドバイスを聞くこと。」

この言葉の意味を、私は身をもって体感しました。
今では、もっと早くやっておけば良かったなぁ、と後悔しています。

ハワイに行ったことで「すごい行動力ですね」「よく行きましたね」と言われますが
やはり、このままで人生終わりたくなかった、と言うのが本音です。
先の未来が見たい!そう思えるようになったのは、自分が変わった証拠だと思います。

でも、まだまだここからが、私のスタートです。
私がしてもらったこと、今度は私が恩返ししたいと思っています。
いつも誰かの背中を押せる存在でありたい、その思いで日々鑑定させていただきます。

そして、お客様にアドバイスをさせていただく以上、まずは自分が誰よりも行動しないといけないと思います。

今がお辛い方、過去のトラウマを抱えている方、安心してください。
私が体験してきたように、未来は変えられます。

竹下の言うことを聞いて開運できた経験、言うことを無視したらどんな結末になるかも十分体感した私だからこそ、お伝えできることがあります。ビフォーアフターが皆様の参考になれば幸いです。

もっと詳しく聞きたい方、ぜひ鑑定にてお話しさせていただきますね。

皆様にお会いできる日を楽しみにしています。

そして最後に、
師匠、本当にありがとうございました。

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