実録!竹下流九星気学鑑定士 佐倉智子の自叙伝

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九星気学鑑定士 佐倉智子

私の幼少期は壮絶で、物心ついた頃には「パニック障害の発作」が当たり前のように起きていました。
そんな私が、「竹下流気学と出会って、初めて自分の生き方がやっと定まりました。」
自分が「G」だったと知って、受け入れ、克服できたことで、安心感が生まれたのです。
※Gとは「虐待のGの頭文字」幼少期の頃に親からストレスを浴びて育った人を竹下流ではGと呼んでいます。

ここまで、自身のことを掘り下げて書いたのは、初めてかもしれません。
超大作にはなりますが、最後までお付き合いくださると嬉しいです。

幼少期の私は、あまり褒められたことがなく
(褒めるようなエピソードもありませんでしたが)
特にうちの家庭がひどいとも悲しいとも思わずに育ちました。

私は幼い頃からパニック障害を持っていて、当時は親にどう伝えて良いのかわからずに毎回
『お腹が痛い』と訴えていました。

昔はパニック障害などという病名はなく、色々な病院を受診しましたがどこでも『自家中毒』という診断をされました。

自家中毒とは、元気な子供が急に何度も吐くという症状が数日間続き、そのあとはケロッと治ってしまう『周期性嘔吐症』のことです。
もちろん私も吐き気はありましたが、それはパニック障害による恐怖からくるもので、実際に嘔吐したことは一度もありません。

パニック障害の発作はいつも突然で、急に恐怖感でいっぱいになり呼吸が出来なくなって、手足が震えて力が入らなくなり、『死んでしまうかもしれない』という不安で冷や汗が止まらなくなります。

家族の中でなぜ私だけ・・?

弟はいつも元気で自己主張もはっきり表に出すわんぱく坊主。
両親は手を焼きながらもそんな弟が可愛くて仕方がなかったようでした。

私はいったん発作が起きると動くことが出来なくなり、その場でしゃがみこんでしまいます。症状が治るまでテレビの音や家族の笑い声を聞きながらじっと耐えていました。
そんなことがしょっちゅう起こるので、両親はすっかり慣れていたようでした。

ただし当人の私は、死にそうになる恐怖感で『助けて、助けて』と心の中で祈っていました。
ある一定時間が過ぎないと発作は治りません。
ひたすら我慢するしかないのです。

『大丈夫?』と声をかけられた記憶もありません。
それくらい頻繁に発作に襲われていました。

竹下流気学と出会って、幼少期の出来事を掘り下げてみると、私がなぜ小さい頃からパニック障害になってしまったのか?という原因がわかるようになってきました。

父から受ける大きなストレス。
勉強という名の拷問。

すでにこの時から『G』が始まっていたのです。

竹下流では親から何らかの虐待や圧力を受けて育った人のことを、虐待族の頭文字の『G』という名称で呼んでいます。

私は子供らしい奔放さやわがままなどは許してもらえないような、とても厳しい家庭で育ちました。
父の言うことは絶対で、反論などしようものならとんでもないことになってしまいます。
もっとも、勇気がなくてそんなことは出来ない子供でしたが。

一番恐怖だったのが、『勉強の時間』でした。
茶の間のテーブルに並んで座り、問題を解くのを父親がじっとみているのです。
ちょっと間違えると灰皿を叩きつけられます。

当時の灰皿はガラスで出来ていて、非常に重くて、それを畳に叩きつけるので頭が真っ白になってしまい、そこからは勉強するどころでは無くなってしまうのです。
ですが、いっこうに進まないことが、また父の怒りを呼んでしまいます。

真っ青になりながら震え上がっていたのですが、そういったことがトラウマとなり、私は父と2人になるといつも恐怖心が湧いてくるのです。

また、父が次の休みは遊園地に行くと言うので、弟と楽しみにしていましたが・・
当日になって仕事が入り、急に行けなくなることが結構ありました。

その時はどんなにガッカリしても、顔に出してしまうと逆鱗に触れてしまいます。
『せっかく連れて行こうとしても、そんな顔をされるならもう2度と計画しない!』と怒鳴られてしまいます。
自分の感情を出さないように、出来るだけ怒らせないようにするのが精一杯でした。

竹下流で気学を学ぶようになって知ったのが、私は子供の頃は【攻撃型】で男性的な性格だったということ。
もっと自分を主張しても良かったのです・・・

それがギュウギュウに圧迫されて、そのストレスがパニック障害として表に現れたのだと思います。

このパニック障害とは、本当に長いこと付き合うことになりました。
ストレスがかかると発作が起きてしまいます。
高校生~結婚前までは、親から離れて自由に生活していたので、パニック障害の発作は出ませんでした。

自分では数年間全く症状がなかったので、もう治ったのではないかと思っていました。

結婚で再発するパニック障害
あれほど嫌いだった父と似たような性格の男性との結婚。

20歳で結婚し、宮城県の女川町というところに引っ越しました。
早く父のところから出ていきたいという気持ちもありました。

女川町は漁業だけしかないようなところで、飲み屋さんとパチンコ屋さん、水管加工の工場がいくつかあるような小さな町でした。

旦那とは結婚した当初からうまく行かずにかなり悩みましたが、父の時と同じようにそれが顔に出てしまうと旦那の怒りを買ってしまいます。
なるべく言いたいことは抑えて過ごしていましたが・・・
またひどい発作が起きてしまいます。

近くに住んでいる義理のお姉さんに電話をしようとするのですが、手が震えて電話番号が押せません。
やっと電話がかけられてお姉さんが電話に出ても、今度は呼吸が出来ずに声が出せないのです。

その時は長男を出産して、産上がりの実家での里帰りを終えて、自宅に戻って1ヶ月くらいか経った頃でした。

元旦那は、ひどい酒乱でDVが毎晩止まらず、しかもどんどん借金をしてしまうので、旦那の悩みと初めての育児でストレスフルになっていたようです。

無言電話を心配したお姉さん夫婦が、病院に連れて行ってくれました。

それからは頻繁に発作が起きるようになり、子供の頃よりもはるかに発作の回数も増えて症状も重くなっていきましたが、離婚するまでそれが続き、食事が取れなくなり体重は38キロまで落ちてしまいました。

シングルマザーになって旦那のDVからは逃れることが出来て、心機一転これから頑張ろうと晴れ晴れとした気持ちで新しい生活をスタートしましたが、やはり3人の子供を抱えての不安が大きかったようで、回数はだいぶ減ったものの相変わらず発作は続きました。

ですが、段々と発作の前兆が始まるとそこで回避することができるようになってきました。
地下鉄なども一駅しか乗れずに、何度も降りたり乗ったりして会社に行っていましたが、本を読んで気を紛らわせることで一度も降りることなく通勤できるようになりました。

それからはしばらく発作が起きることもなく、普通の生活が送れるようになりましたが・・・

父の事故で始まった介護生活
そして表に出てきたパニック障害

2014年10月
会社から父が火傷をして病院に運ばれたからすぐに行くようにと連絡が入りました。
『火傷くらいで病院から呼び出されるなんて・・・』と半分呆れて向いましたが、父がいたのは大学病院の救命救急でした。

その日、1人でドライブに出かけた父は、津波で家が流されてしまった海岸沿いを海を見ながら走っていて、住宅があった場所の土台の部分に追突してしまい、車が炎上してしまったのです。

たまたま近くを通りかかった病院の送迎車が、父の車を見つけてその職員さん2名も火傷をしながら、車の中で意識を失っていた父を引っ張り出して助けてくれました。
その時はまだ意識があり、
『ここに1人でドライブに来た。娘に連絡してくれ』ということを言っていたそうです。

そしてこれもまた偶然ですが、仙台の大学病院の救命救急の先生がドクターカーで事故直後にたまたま通りかかったそうで、とりあえず近くの病院に運んで最初の処置をした後に、ここではだめだ!と言うことで、ご自身が勤める大学病院に救急車で搬送してくれたのです。

連絡を受けて病院に駆けつけたところ・・
集中治療室の父は真っ黒に焼け焦げていて、救命救急の先生からは
『今日は持たないかもしれないから、会わせたい人を呼んでください』と言われ、父の兄弟や息子たちに連絡をとり、みんな慌てて駆けつけてくれました。

細菌を持ち込まないように足首まである白衣と帽子、そしてマスクとビニール手袋をして数人ずつ会わせてもらいました。
その日は全員がお別れのつもりで集まったのです。

主治医からは大学病院始まって以来の熱傷患者だと言われました。
大量の点滴を身体に入れるので、輸液で顔や身体がパンパンに膨れ上がっていました。

偶然が重なって初期治療が早かったことと、大学病院の救命救急の先生方のおかげで、何度も皮膚移植を繰り返し1ヶ月後には意識が戻りました。

事故の前も私と父の仲は相変わらずで、一緒にいると手が震えるような状態でしたがもうそんなことは言ってられない状態です。
様々な打ち合わせや手術の説明、大量の書類の記入、警察の聴取、車のリコールに該当するかどうか警察と自動車メーカーの車の分解の立ち会いなど・・全ての手続きや電話が私に集中することになりました。

実はその当時、私自身大病をしていまして・・・
この年の2月にガンがあることがわかり、3月に手術を受けるという自分の人生の中でも衝撃の年だったのです。
精神的にもボロボロ・・・
手術後は放射線治療が始まりますが、体調の悪さと再発への恐怖で自力では眠ることが出来なくなっていきました。
会社に申告していた半年間の療養休暇が終わり、9月からなんとか職場復帰を果たしたばかり・・というタイミングで父の事故が起きたのです。

メンタルもまだまだ立ち直れていない状況でしたが、もはや自分の病気どころではなくなり、父のことで奔走するという日々が始まりました。

病院は当然完全看護でしたが、なぜか私は毎日病院に通って、お昼と夕方は必ず父の食事の介助をすると決めていました。
周りからは、すごく仲のいい父と娘だと思われていたようです。
私は依然として父と2人にされると手が震えてしまいましたが、綺麗事ではなく純粋に父をこのまま1人にすることは出来ない、少しでも何かしたいという気持ちが強く、食事だけは看護師さんではなく私の手から口に運んであげたかったのです。

でも少しずつ少しずつ、私の心と過去のトラウマのギャップが出始めて、とうとう数年ぶりにパニック障害が起きてしまいました。

上司からは
『こんな状況だから仕事はセーブしていこう』と言ってもらえていましたが、どうしても訪問しなければいけないお客様がいて、そのお宅に行った帰りのことです。

お客様のお宅を出て、仙台市内に戻るには長いトンネルを通るのですが、そのトンネル内でパニックが起きてしまったのです。
通常の状態でもパニックが起きると呼吸や意識が正常では無くなってしまいます。

ましてや運転中、そして車を停めたり出来ない逃れられない長いトンネルの最中です・・・

自分ではもうどうしようもなくなり、すでに竹下流にお世話になっていた私は、
竹下を頼り、電話していました。

『先生!パニック発作が出てしまいます!!!』

竹下からは
『まずは落ち着いて運転して。車を停められるところに来たら一旦休みなさい』と言う言葉でした。
その声を聞いて徐々に落ち着きを取り戻すことが出来ました。
久しぶりの発作で、自分のストレスが思っていた以上に大きかったことがわかりました。
今思えば、私がガンという大病をして療養休暇中に竹下流気学を知ったのですが、それがあったからこそ父の介護生活も乗り越えられたのだと思います。

私はありがたいことに、人に恵まれて生きてきましたが、竹下流気学と出会う前まで、本当の意味で人に頼ったことはありません。
それはGなのかもしれませんし、自分でやってきたという意地や、逆に人に頼ることが怖いという自己防衛だったのかもしれません。

私の人生は、
もはやここまで・・・
と自分が追い詰められた先に、さらに追い討ちをかけるようにトラブルが重なってきました。

そんな時に幼少期のトラウマで人を信頼することが苦手な私は
【こんなことぐらいで泣き言を言っちゃいけない】
【これは人に言ってはいけない事かもしれない】
と自分の中にどんどん溜め込んでしまい、次第に抱えきれなくなって発作が起きるというサイクルだったのです。

竹下流気学と出会って悩みを相談する場所が出来たこと。
それを聞いてもらえて支えてくれる環境が出来たこと。

自分の本音を出せるようになって、私の根深い親子関係の【G】に信じられないほどの変化がありました。

人を信じても大丈夫

と思うことは、Gの人にとっては【不安】というよりも【恐怖】です。
竹下流でいうGの人は、みなさん簡単には外せないストッパーを持っています。

私が小さい頃から50年以上持ち続けていたトラウマをかなり解消出来たことがあります。
それは、父の新たな病気の発覚でした。

事故で介護生活になった父は、介護施設に入所することになりました。
その当時も私と父の関係は変わりません。
手が震えていても父を自宅で面倒をみるという無謀な申し出をして、周りから強烈なストップがかかります。

私もなぜだかはわかりませんが、負担に思う気持ちと親に対する気持ちの両方があったのかもしれません。

父に重なる試練と介護
竹下流気学に出会っていたからこそ伝えられた感謝の言葉。

施設に入所して数年経ったころ。
父はトイレでしょっちゅう倒れるようになりました。
足腰が弱っていたので、ふらつきによる転倒だと私も施設のスタッフさんも思っていました。

ところがその転倒が頻繁に起こるようになったのです。
夜にトイレで気を失って、朝方倒れている状態で見つかることもありました。

2020年2月に、一度お世話になった総合病院で精密検査をしてもらったところ・・・
診断は『白血病』でした。

この時はさすがに涙が止まりませんでした。
父は大事故で身体が不自由になり、火傷で耳も鼻もなく指も使えない状態です。
これ以上、本人が亡くなるまで、さらに試練が必要なのでしょうか??

次々と父に降りかかる災難に、私が支えて行かないといけない!と思っていた矢先、今度は私が複雑骨折をしてしまいます。

普段でさえ生活雑貨を運ぶのは大変なのに、車椅子でオムツや介護用品を病室に運ぶことになります。
両手で車椅子の車輪を押す時に、段差で何度も膝の上に載せたオムツが転がって飛んでいき、それを周りの人がすかさず寄ってきてくれて集めてくれます。
ありがたい気持ちと情けない気持ちでメンタルがおかしくなってしまいます・・・

それが恥ずかしくても情けなくても、毎日やるのは私しかいません。

そうやって介護を続けて半年ほど経ったころ。
父親の病状が悪くなり、ホスピスの病院を3ヶ月ごとに転々としなければいけなくなってきました。
どこの病院にも最長3ヶ月しかいられないので、期限がきたら転院をするしかないのです。

父は意識がある時と、混濁している時があり、まともに反応するのはなぜか私の声だったので、看護師さんの伝えたいことは私が耳元で話すことで意識が一時的に戻るような感じでした、

竹下に『そろそろ危ないかもしれません』と伝えたところ・・

『うーーーーーん。父親に、ありがとうって言ってみれば?』ということでした。

今までの長い確執を思えば、それは本当に無理なこと。

私自身はすでにご先祖さまに対して
『父が亡くなったら、その後でちゃんと供養しますから』と伝えていたのです。

到底生きている本人に感謝を伝えるなんて絶対に無理・・

竹下にも『それは無理です』とお話しました。

ですが『今言わないと後悔するんじゃないか?生きている間にちゃんと感謝を伝えたほうがいいよ』
というアドバイスをもらいました。

翌日、感謝を伝えに父の病室に行きますが、なかなか言い出せません。
廊下に出たり病室に戻ったりしながら、言い出すタイミングを探していた時、父の意識がしっかりしてきました。

もう伝えるなら今しかないと思い、父の耳元で
『お父さん!今までありがとうね』耳もほとんど聞こえなくなっていたので、かなり大きな声で話さないと伝わりません。
父は驚いたように目を見開いて、無言で私の顔をじっと見ていました。
それ以上病室にいると泣いてしまいそうだったので、病院を出て竹下にお礼を伝えられたことを報告しました。

『よかったな』

ここから父の病状は一気に悪化していき、ほとんど寝ている状態で意思の疎通も取れなくなってしまいました。
本当に先生に相談して、悪くなってしまう前の最後の意識がある状態の中で、父に感謝が言えたことは自分の中でとても大きなことでした。

あの時父にお礼を言わずに見送っていたら、こんなに穏やかにお別れすることは出来なかったと思いますし、多分一生後悔することになっていたでしょう。

そして、私の長年続いてきたパニック障害もこの後すっかり出なくなりました。

いかがでしたか?

私は竹下流気学と出会い、本気で人に相談することを覚えました。
それにより、振り返ってみると、一人では絶対にしなかったであろう決断を何回も行い
人生の大きな山を乗り越え、過去のトラウマに立ち向かいうことができました。

自分自身で振り返って見ても、もう戻りたくないほど辛い経験でしたが、それが今鑑定士として生の体験談をこうしてお伝えできること、そしてどんなにひどい『G』であっても、ちゃんと向き合えば改善されるということがわかりました。

今後ももしかするとまた大きなストレスがかかった時はパニック障害の発作が始まることがあるかもしれませんが、今回のことで私は自分だけで抱えずに誰かに頼ることを学びました。

もう発作が起きたとしても、1人でしゃがんで我慢していた自分に戻ることはありません。
本当はパニック障害なんてならずにいたら、もっと楽しくのびのびと生きられたのかも・・・とも思います。

ですが今はこの経験を生かして、親子関係のお悩みや家族のお悩み、メンタルのお悩みなど1人でも多くのお客様のお役に立てればと思っています。

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